背広(文化と社会)

背広は、ポストモダンが提唱される現代からすれば、過去のモダニズムに基づき、かつ生き続けている。 新古典主義による自然そのものの人体をなぞるようにフィットした形状、体を束縛せず動きに追随する合理性、 レースやフリルなどの表面上の装飾を廃して毛織物そのものの重厚さとパターンや仕立ての妙を重視すること、 抑制された色調と形状の制限によるダンディズムやジェントルマンの表現、 首筋を締めた薄い色調のシャツと濃い色調の上着の開いた胸元のくつろぎ感のバランス、 鮮やかな色彩を添えかつ男性器を暗示するネクタイ、 などである。 モダニズムに代表される西洋の価値観が世界的に広まり、今日各国の首脳が集まる国際会議などでは、背広を着た人が大多数を占め、 伝統的な民族衣装などを着る人は少ない。

また世界的に普及することで、地域独特の文化をも生み出してもいる。 一つは長くフランスやベルギーなどの植民地となりまた戦争を経験している、コンゴ民主共和国やコンゴ共和国などにおけるサプールと呼ばれる人達である。多くは豊かではない労働者で日常は作業着などで仕事をしているが、水道が普及していない環境でも体や服の清潔を保ち、収入の多くを高価な背広に費やし、 ハレの日などには濃い肌や髪や瞳の色と互いに引き立て合う鮮やかな色調の着こなしで現れ、平和と自由を尊重し人生を楽しみ尊敬される人達である。

日本では明治維新に伴って背広を含む洋服を取り入れたが、冠婚葬祭などにおける礼装や、仕事や外交における半ば制服として、ファッションではなくマナーに留まっていて、これは現在も続いているとする評もある。冠婚葬祭でのブラックスーツや就職活動でのリクルートスーツ、会社員や公務員では暗い色の背広に白いシャツと地味なネクタイ、暴力団などの反社会的勢力ではけばけばしい派手な背広とシャツとネクタイの組合せなど、ステレオタイプな画一的な服装をしていて、背広を含めた服装に社会の規律を意味する度合いが、日本では非常に高いとされる。環境省など行政が提案しているクール・ビズでは、具体的に服装規定を設けて、背広の上着を着ないいわゆる「ノージャケット」について「可だが徹底されていない」などの表現にみられるように、ルール化されている。また「体形に合ったスーツ選びを。色はダークな紺か黒が無難。」や「スーツに合わせる定番アイテムのルール」のように規則として表現している書籍もある。

男性の略礼装には昼夜を問わず背広型のスーツが用いられる。特に改まった場ではダークスーツがふさわしいとされる。ダークスーツは暗く濃い灰色か紺色の無地やそれに準じる生地を用いた背広型のスーツである。着こなしはシャツやネクタイに決まりがないが、白色のシャツに結婚式などでは華やかな色や銀色のネクタイ、葬儀などでは地味な色のネクタイを用いるのが奨められている。黒色の背広型スーツ(ブラックスーツ)を用いるのは日本独特の風習であり、ブラックスーツはダークスーツに該当しない。

もともと注文服として生まれた自宅でくつろぐための背広は、既製服化され「吊るしの背広」として普及することにより略礼装にも用いられる服に昇格する。 背広の世界的普及は、欧米の科学技術や経済や文化の優越感や、帝国主義によるグローバリゼーションによるもので、中国における人民服や、南アフリカ共和国のネルソン・マンデラが着たろうけつ染めのシャツ、あるいは糸車を廻すマハトマ・ガンディーの着るインドの木綿の肩掛けや腰布など、一様ではなく社会的にも複雑な問題をはらんでいる。また、かつて若者の犯行のシンボルとされたジーンズとTシャツに背広をあわせるような着こなしもある。このように受容あるいは拒否された背広は、ポストモダンが提唱される現代では「退屈な代物」などと評される一方で、今後もしばらく生き延びるとされている。

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背広の歴史

背広のような腰丈のジャケットのヨーロッパでの登場は、1789年フランス革命でのサン・キュロットとされる。それまでの上着は、ジュストコルのように膝丈のいわゆるコートであった。直接的には背広は、19世紀中頃に当時の日常着であったフロックコートを改良したものとされる。膝丈のフロックコートを短く腰丈にしくつろげるようにゆったりとした作りの、ラウンジジャケットやサックコートと呼ばれる上着である。これは自宅の広間などだけでなく、スポーツなどレジャーにも用いられた。また共生地でズボンやベストも作られ、ラウンジスーツ、サックスーツなどと呼ばれる。19世紀後半になるとアメリカ合衆国ではビジネスにも用いられるようになりヨーロッパにも波及し、20世紀までには世界的に普及した。

20世紀までに、背広の形状はいわば標準化され、それ以降は上着丈や肩幅や形状、ラペル、ズボンの太さや丈、ボタンの数などの変化に流行が見られる。20世紀初頭は肩を強調した形状にゆとりのあるズボン、1910年代は自然な形状の肩、1920年代は裾幅の広いズボン、1930年代は直線的な軍服をモチーフとした肩などである。第2次大戦後はアメリカ合衆国などでチョッキを省略した着こなしが普及する。

日本では1867年の片山淳之介の『西洋衣食住』に、フロックコートが割羽織、背広を丸羽織として記述される。また1887年の大家松之助の『男女西洋服裁縫独案内』では背広と表記される。背広は明治末から大正はじめにかけて普及していった。[2]大正期には2つボタンスーツが普及した。

現在では式典など簡略化が行われ、それに伴い服装も簡略化され、略礼装、平服、informalと呼ばれる男性であれば背広型のスーツ、特にダークスーツで対応できることが多い。

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